風刺とは何か:爆笑問題とシェルリー・エブト
「Je suis Cherie」 =「わたしはチャーリーだ」
ニューイヤー気分の覚めやらぬ1月8日。パリで残酷な事件がおきた。
イスラム過激派による、風刺雑誌、「Charie Hebdo」に対する残虐な殺戮事件である。
この事件は、宗教的・社会的、文化的にとても複雑な要素を絡んでいる。
生半可な知識で軽々しくブログなど書くべきではないと、かなり躊躇した。(いまもしている)
だけれど、イギリスにいて、わたしがもっとも懸念するのは、この事件が引き金になって、イスラム対西洋という社会分裂がさらに大きくなること。
また、この事件に関して、実は日本だって根っこはつながっているのに、日本のメディアがあまりに薄っぺらにしか報じていない事に対する老婆心も大きい。
外国人排斥のムーブメントが、ごく近所で起こっている日本だって、グローバリズム現象の反動として繋がっているはずなのに。
そりゃあ、イギリスはフランスに近いのだから当たり前。ロンドンやパリと同じようなテロなんて、日本は無縁だから。
ほんとだろうか。ほんとうにそうだろうか。
と腹ではおもいながら、イスラム問題をめぐってはあまりにセンシティブで、やはり軽々しく書くべきではないと心ひく。(いや、これはイスラム問題ではなく、テロ問題。だが・・・)
だけれど、それでもあえて、この事件の「ある重要な側面」-については、きちんと自分に問うてみたい。言葉にしてみたい。
むしろ、多くの報道が、その側面に深く迫らず、事件の表層部分やヨーロッパにおけるイスラム問題の方に流れてしまっているのなら、あえて問いたい。
それは、「表現の自由」という基本的な権利、もっというと「笑う」という文化と、近年におけるその危うさだ。
事件のおきた翌朝、ロンドンの中心地、トラファルガー広場に、自然にメッセージの輪が広がっていた。
そのほとんどは、「Je suis Charie」と書かれたメッセージである。
Charieとは雑誌の名前の一部だと気付きつつ、その文章がいったいどんなメッセージなのか、はじめは分からなかった。
でも、それは反イスラムとか、反西洋主義とかを一方的に支持しているのでは、決してない。
よくみると、そのメモリアルを囲むように、夥しい数のペンが並べられていた。
それが答えだった。
つまり、「自由に表現すること」の重要性、その権利を主張しながら、まさにそれを職業とする漫画家や編集者、その権利のもとに闘って、亡くなった方々に、深く心を通わせているのである。
「Je suis Charie」=「わたしはチャーリーだ」=「わたしは表現の自由をもつのだ」
それをみたとき、わたしは、たまたま、時を同じくしておこった日本のニュースを思い出した。
爆笑問題というコメディアングループが、ある政治家をネタにしたら、NHKからごっそり削がれてしまったというニュースである。
その出来事はニュースの片隅にのるか、取り上げられても上っ面だけで、「表現の自由」という根本的な問題まで掘り下げて、議論されなかったように、わたしにはみてとれる。
議論されたとしてもごく一部の関係者の間だけで、社会が一緒に考えるような大きな問題には、残念ながらならなかった。
風刺とは、漫画とは、どんな社会的役割を果たすのだろう。
イギリスに十年以上住んでいて、
風刺とか漫画、コメディーというものが、歴史的にたいへん重要な社会的役割を果たしてきたことが、すこしずつわかってきた。
そもそも、コメディアンは王の側近のアドバイザーだったし、漫画の発祥はイギリスの風刺だった。
今でも、王室メンバーや政治家たちを、ここまでしてよいのかというまで、けちょんけちょんにこけおろす。
「Charie Hebdo」も、イスラムだけを槍玉にしたのでは全くなく、カソリック教皇や、政治家や権力をもつ著名人たちも同じようにターゲットにしていた。
けちょん、けちょんにけなしながら、ひとびとの批判精神を育て、人類の平和と平等を願ってきた雑誌である。
それは、(少なくとも西洋では)、直球で投げてくる社会批判であり、
権力を持つ者に対する一般民衆を代弁する鋭い声であり、
相手だけではなく自らの負や傷を笑い飛ばし、バランスを調整する浄化作用なのだ。
そういう批判の声が、笑い飛ばす社会的なバランスが、暴力的にあるいは上からの圧力でそがれてしまったら、どうなるのだろう。
こんなことがあったからと、「爆笑問題」やほかのコメディアンたちが、政治に関しては、ビビッて口閉ざしてしまったら、どうなるのだろう。
爆笑問題は、ますます圧力が強くなってきたのを「肌で感じる」と言っていた。
風刺漫画やコメディーは時に、あまりに過激な表現で、反感をかうこともあるだろう。
もっと自粛すべきじゃないかと、逆に批判にさらされることもしょっちゅうだろう。
どこまでは許され、どこからはだめなのか-それが社会や文化によって違うということも頷ける。
でも、だからこそ、そこまでやるからこそ、風刺になるのではないだろうか。
社会が寛容とバランスを失わないための、炭鉱のカナリアのようなものなのではないだろうか。
「笑い」があるからこそ、社会が寛容なのではないだろうか。
明日日曜日(1月11日)、パリにはたくさんの人々が集まるらしい。
イスラムとかユダヤとか、あるいは西洋とかいう宗教的、民族的違いを超えたひとびとが集まるという。
2015年が平和で笑いにみちた年であることを願ってやまない。
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