親密な風景:デビット=ホックニー展@ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
青々とした木立が並ぶ赤い道は、画面中央を遠く地平線まで伸びていく。
その道に沿って、夥しい数の伐採された材木が黄色い体を横たえている。
傍らには、材木と対照的に描かれた1本のむらさき色の切り株。
切り株は、まるで仲間を見送るかのごとく不器用に腕を伸ばしています。
これは、風景画じゃないな。
デビット=ホックニーの作品「木々とトーテム」を見たとき、わたしはそう思いました。
ギャラリーの壁を占領するほどの大きな油彩画は、どうみたって風景画です。
でも、そこに描かれている木々や切り株からは感情が沸々と湧き出ているのです。
LAを拠点とするデビット=ホックニーは、
近年、彼の故郷、イギリス・ヨーク地方の平凡な田舎風景の制作に取り組んでいました。
この展覧会は、その作品群を紹介するものです。
それらの作品には、とんでもなくビビットな色が使われ、形もぐるぐるにデフォルメされている。
風景画といえば、一般的には自然のハーモニーを映し出すものと理解されますが、大いなる逸脱です。
いや、実に、ホックニーらしい。
こんなに自然を歪めて描いたのなら、地面が描けてないというか、
地に足がつかない嘘っぽい作品になるか、さもなければ抽象画になってしまうわけですが、
ホックニーの魅力は、そんなにデフォルメしているのに、
まるでわたしもそこに立っているような不思議な感じをうけるのです。
外光のきらめきや、うつろう影や、気まぐれな風や、木々の匂いや、新鮮な空気などが伝わってくる。
どうしてだろう。
ギャラリーを巡り、ひとつひとつの作品を見ていくうちに、少しわかったような気がします。
それは、ホックニーが風景に登場するひとつひとつのキャラクターに、いやその風景全体に、自分の心を寄せているからではないでしょうか。
なんだか当たり前のようにも聞えますが、その寄せ方がタダナラヌのです。
大きな画面は最終的にはスタジオで仕上げられたもの。
だけど、彼自身が「全てはスケッチブックから」というように、何度も何度も同じ場所に通い、
同じ木々を、同じ道を、同じ地面のうねりを観察し、手を動かし、
そのイメージを自分のイマジネーションの中で再生して、キャンバスの上に落としこんでいく。
もちろん、そこは彼が生活を通して慣れ親しんだ故郷であるという素地もあります。
だから、あのムラサキの切り株だって、
まるで古い友人のように画家のなかに生きているのではないか。
これはもうポートレイトです。
ホックニーといえば、プールサイドの彼の恋人や友人たちを描いた作品が有名ですね。
わたしのお気に入りは、ナショナル・ポートレイト・ギャラリーにある彼の両親を描いた絵です。
ホックニーの風景画にも、それらと共通した本質があるように思えてなりません。
それは、英語でintimacyというものではないか。
日本語では、親密と訳されることが多いのですが、ちょっと物足りない。
intimacyは、もっとプライベートな関係性(性的な意味が含まれることも)を
意味するように響きます。
人間関係だけではなく言葉や土地にも使われます。
それは、心を寄せる、シンパサイズすることから生まれる関係性です。
今回の展覧会について
メディアは、ホックニーがiPadを使って描いた作品を展示していることにも注目しています。
でも、わたしにはどうでもよいのです。たぶん、ホックニーもそうでしょう。
テクノロジーは道具にすぎない。
彼にとっては、新しいスケッチブックのようなものに違いありません。
描く対象とのあいだにintimacyがあれば、どんな道具を使おうと、
アーティストの表現のなかに表れてくるのだと、iPad作品を見て思いました。
ホックニーは、再び大きなチャレンジに挑んでいます。
それは、彼の第二の故郷、カリフォルニアのヨセミテの自然を描くこと。
その壮大さを再現するには、iPadという道具が有効なのだそうです。
彼が、人間の感覚を越えた荘厳なヨセミテの風景を、
いかにintimacyをもって描くのか、とても楽しみです。
David Hockney: a Bigger picture / Royal Academy of Arts 9 apr 2012まで
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