オットセイの楽園
イギリス人もスコットランド人も、自然を歩くのがほんとうに好きだと思う。
「歩く事」が文化になっている。
パートナーのJもイギリス人だが、
おかげで、日本にいた時にはなかった新しい趣味がわたしにもできた。
歩く事が文化だから、それを支える様々なシステムができている。
たとえば、英国では全国津々浦々に「フットパス」というのが巡らされている。
簡単にいえば、たとえプライベートの土地でも、基本的なルールさえ守れば、誰もが自由に歩けるというしくみだ。
Jが誇らしげに語るには、フランスでは「フットパス」が政府主導でつくられたのに対し、
イギリスでは、人々の間でそういう習慣が自然にできあがったらしい。
若干、長年の宿敵フランスに対する見栄があるように思えなくもないが、
それはさておき、歩く事が「文化」になっているのだと、やはり思う。
そのおかげで、全国くまなくカバーされた、とても細かい地図さえある。
ホストであるJoさんちのコッテージの本棚にも、
この近辺の歩く用の細かい地図やウォーキングのしおりがあった。
今回は、それを拝借して、海岸部に沿って小さな半島をぐるっと廻るコースをきめた。
車を最寄りのパーキングスペースに停め、海に向かった。
川と小さな沼地と海と、砂場と岩場と、不思議な色のハーモニーを演出している。
しかし、穏やかなのはそこまでで、そこからは、大変(少なくともわたしにとっては)困難なルートを行く事になった。
フットパスといっても、これが道なのか?というような感じ。
いや、かろうじて獣道みたいのが確認できるなら、まだましで、
まさに言葉どおり「道なき道を行く」。
時には、深い草むらや灌木の湿地帯だったり、海岸線の崖っぷちだったり、ゴーゴーと流れる激流の川沿いだったり・・・。
そのような状況で、どのルートをとるか判断するのはとても難しいと思うのだけど、
先をいくJは心得たもので、時に細かいマップやGPSにたよりながらも、道を探し出した。
わたしは悲鳴をあげながら、あとについて行った。
なにを隠そう、実は高所恐怖症なのだ。
崖っぷちを歩く時には、文字通り膝がガクガク鳴っていた。
一見歩きやすそうな湿地帯だったって、深い草むらの下に、小さく深い水たまりが隠れている。
そこにはまったら、ひどい目にある。
海岸沿いだから、ものすごく風も強い。しかも、時折強い雨が降った。
鼻水と涙を流しながら(強風に吹かれるとそうなる体質)、
ウォーキングシューズの中もぐしょぐしょにしながら、
時に尻餅もつきながら、必死に歩いた。
なんでこんな人っ子ひとりいないようなところを歩くんだろう。
誰がこんなとこにくるもんかと、
なんでこんな品のよい日本人をひっぱってくるのよ!とブツブツいいながら、
しかし、ここまで来たら、いさぎよくついて行くしかなかった。
やがて向こうの方から、人影が。
一組のカップルが、道なき道をさっさと通過して行った。
「ここは、わたしたち3度目なのよ。今日はなんか歩き足りなくて、予定をのばす事にしたの」
やっぱり、エゲレス人は自然のなかを「歩く」のが好きだ。
でも、歩ける道だとわかって、少し安心した。
こういうハードな道を歩く時は、後でよい事が待っていると想像するのが一番。
私の場合、それは、美味しい酒と料理とか。
これがもしも日本だったら、そのリストに絶対に「温泉」をいれるのだが、
スコットランドでは、温かな湯をはった湯船でがまんするしかない。
もう3時間も歩いただろうか、ある高台に上りつめたら、
その向こうに隠れた静かな湾が待っていた。
波が押し寄せるところには、一軒の石造りの廃屋がある。
こんなところに人が住んでいたなんて!
どうやって生活を営んでいたんだろう?
そもそも、どうやって他の地域と行き来したのだろう?
などと想像していたら、
Jが叫んだ。
「オットセイだよ、ほら、あそこ。あんなにたくさん」
ほんとだ!
こんどは、肉眼ではっきり見える。20匹はいるだろうか。
先日スカイ島で遠見したオットセイたちは、
そろいもそろって岩盤の上で、ひなたぼっこをしていた。
ずんぐりした図体を横たえて、うだうだとリラックスしていたけれど、
今回みるコロニーのオットセイたちはとても活発だ。
日向ぼっこ組もいるが、海で泳いでいるのがたくさんいる。
子供たちなんだろうか。
追いかけっこしたり、ジャンプしたりして遊んでいる。
向こうも、こちらに気がついたようだ。
海から顔だけだして、こっちをじっと見ている。
わたしたちがちょっと動くと、
日向ボッコ組 −きっと親たちなのだろう−が、一斉に海の中にはいってしまった。
でも、けして遠くにはいかないで、少し離れたところでこちらをみている。
子供たちはあいかわらず、たまに海から顔をだして私たちの様子をうかがいながら、
遊びに興じている。
楽しそうだから、わたしたちもそこでサンドイッチを食べる事にした。
さっきの風雨はうそのように静まりかえっていた。
荒い波も、この小さな湾では穏やかになっている。
ここは、オットセイたちのパラダイスにちがいない。
わたしも「温泉」の事は忘れてしまった。
ここまでなんとか歩いてきた事に対する
かけがえのないご褒美である。
ランチを終えて、もうぼちぼち出発せねばと、立ち上がった。
先に進むには、湾に降りて行かなければいけない。
オットセイたちの平和で楽しい時間を乱してしまうようで、申し訳なかったけれど、
どうやら、老婆心だったようだ。
湾を降りて、廃屋の脇をとおり、反対側まで行ったら、
なんと、子供のオットセイたちがわたしたちの方に近づいてきたのだ。
彼らは、海から顔だけだして、わたしたちを目で追っている。
たまに、海のなかに水しぶきをあげてジャンプしながら。
好奇心たっぷりのオットセイたちだった。