裸体のキリスト:ミケランジェロ展@National Gallery,London

ロンドンのナショナル・ギャラリーで「ミケランジェロとセバスティアーノ」展が開催中だ。

展覧会のテーマは、この二人の25年に及ぶ友情と彼らの作品がいかに影響し合ったかを追うもの。

ミケランジェロはフィレンチェのアーティスト、セバスティアーノはベネティアの画家である。

前者は構造や身体への深い理解を特徴とするのに対し、後者はむしろ色彩をはじめまず作品全体の感覚的な美を追求した。

二人とも、宗教の総本山・芸術の都、裕福なパトロンたちがおり、ラファエロなどの競争相手がたくさんいたローマを訪れて、

互いにないものを補い合い、ともに作品を高めていった−その様子が展示の順をおって確かに伺えた。

作品と同時に彼らの手紙のやりとりをみながら

それぞれの影響や生き生きとした制作過程をおっていくのは興味深いことだった。

 

だが、そんな展覧会のテーマよりも、わたしが心を奪われたのは、圧倒的に3点のミケランジェロの彫刻作品だった。

ひとつは、ヴァチカンからやってきたあの「ピエタ」−若きミケランジェロが名声を獲得した有名な像(コピーだけど)である。

息子の遺体を自分の膝に乗せ、放心したようにうつむく母、マリア。

その深い悲しみとともに母としての大きさと優美さが、命の炎がきえたキリストの肉体と対比して、見事なまでに表現されている。

あとふたつは、わたしが今回はじめてその存在を知った像だ。

ひとつ前にある展示室に入った時から光を放ち、わたしの目を奪った。

そこに十字架がなければ、その顔が面長で、髪が長く髭が生えていなければ、

ギリシアの神像かあるいは、まさに、ミケランジェロの名作「ダヴィデ」像と見まごうばかり。

肩幅は広く、胸は厚く、引き締まった腹、力強く優美な手足。

存在感があり、エネルギーに満ち溢れた、全裸の男性像である。

すっかりその美しさに心を奪われて、大事な事に気がつくのがその後だった。

そういえば、これ「キリスト」だ!

一糸もまとわないで、しかも、こんなに筋肉隆々のキリストなんか見たことがない。

ある種のセクシャリティーすら感じてしまう。

わたしですらショックなので、当時のローマの人からしたら相当なショックだろう。

むしろ、スキャンダルをおこしたのではないかしら?

解説によると、ルネサンスの時代にはキリストに対するそういう革新的・理性的な考え方をする人々がでていたようだ。

ミケランジェロにとって、復活したキリストとは、あのピエタ像のように、

母の膝に横たわる血の気のないゴツゴツとした身体とは全く別物の、

エネルギーに満ち満ちた存在感ある肉体として描く方が、不死となった全霊の存在を具現化しえるものと考えたに違いない。

足元には死を象徴する墓。

その死に打ち勝ち、踏みつけ、地面からたくましく立ち上がったキリストの、まあカッコイイこと。

優美な体の線と、まっすぐな十字架が見事な調和をとっている。

そこには、古代ギリシアの神々が理想的な人間の肉体をもって表現された事と相通じるものがある。

そう、ミケランジェロはまさにルネサンスの人、

キリスト教の、「表現」に対する長い抑圧の後、2千年も昔のギリシア芸術の高さを再発見したルネサンス(再生)時代の、新しい表現者なのだ。

 

正直いうと、それでも、やはりやせ細ったキリストの方に心寄せられる私だけど、

ミケランジェロにこんな作品があるのを知っただけでも、この展覧会を見た甲斐があったというもの。

なにより感動的に美しかった。

(わたしの感想、キューレターの意図どおりではなかったね。ま、来館者はそんなものです。そのとおりに読む必要もない。)

 

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「Michelancelo & Sebastiano」展

ロンドンナショナル・ギャラリーにて

2017年6月25日まで

 

 


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