壮大なるカルナック神殿−ルクソール
こんな壮大なスケールの建築はみた事がない。
50ウン年の人生で、南米大陸以外のさまざまな国に旅したけれど、
インドのタージーマハールも西安の兵馬俑もローマのコロセウムもあるいはアテネのパルテノン神殿も、ルクソールのカルナック神殿にはとうてい及ばないだろう。
写真や映像は何度もみてきたが、実際に自分の足でそこに立ってみないとその大きさを実感できまい。
それを構成するひとつの柱だって、150Mの高さ、太さも10人で抱えるようなサイズだ。それが120本以上も林立している。
神像もオベリスクもありとあらゆる構成要素が巨大だ。
ガイドをお願いしたハッサンによると、実際に世界最大の神殿だそうだ。
この神殿の主要な部分は、エジプト王国がもっとも栄えた紀元前16-11世紀に作られた。
後に、「新王国」と名付けられた時代である。
今のようなテクノロジーがない時にどうしてこんな巨大な建造物を作り得たのか。
ギザのピラミッドも驚いたけれど、古代エジプト人の智恵や成し得た事業には、恐れ入ってしまう。
神殿の主は、太陽神アメン(アムン)を中心に、その妻ムトと息子コンスというこの土地の神々。
古代エジプトの神々で興味深いのは、家族構成になっている事だ。
そういえば、日本の神々もギリシアの神々も家族構成があり、命と永続性を語ろうとしている。
カルナック神殿や神々については、たくさんの読み物があるので、ここではわたしの興味に引っかかった事を覚え書きしておきたい。
一番目に、立地的地理的条件の背景にある意味。
正門は建物の東側になる。
コンプレックス全体の中央にまっすぐな道がのびており、最も神聖な場所へと続いている。
巨大な城壁で囲まれたセクションがいくつも重なっていて、聖なる道は城壁の門を通って中央を奥まで抜け、その門の両脇には巨大な神像が立っている。
はじめのセクションは一般人が参列できるところ、次は位の高い人々、次はもっと高位の人々、最後は王と最高位の神官しか入れない。
ある本によると、この建築構造も後のキリスト教教会の基本構造に影響を与えたのではないかという。
確かに、一般人が参列する身廊と奥にある礼拝の場所は区切られている。
カルナック神殿の場合、その位置関係は太陽の動きと関係があるらしい。
夏至(冬至かも?ハッサンの説明を聞き漏らしてしまった)になると、日の入りの時間、神殿中の神殿がまっすぐ太陽を崇めるよう、計算されているのだ。
紀元前のエジプトの人々が、天文学的な知識と数学的知識があったことを意味している。
二番目に、毎年おこるナイルの洪水をうまく利用し、そこに意味付けを加えていること。
最初の門はナイル川に面している。
古代、神像を載せた儀式の船が川岸につくと、神官たちは神々が乗った船を肩にのせて門に入る。聖なる道の途中は普段水が侵入しないように少し高くなっていて、行列はスロープをいったんあがって、今度は最初の門にむかって下がっていく。
その道の両脇には羊の頭のスフィンクスがずらーっと並んでいる。
それから聖なる行列はいくつもの門をこえて、奥へ奥へとすすんでいくのだ。
極彩色の旗がはためき、音楽が奏でられ、お香が炊かれていたことだろう。
目を閉じれば、スペクタクルな儀式が脳裏に浮かぶようだ。
夏、ナイル川があふれると水が自然に神殿内にはいってきて、建造物の下部全体をおおってしまう。時がくればやがて水はひけていく。
それを古代の人々は神殿全体の禊ぎと解釈した。時に脅威ともなる自然の力を、彼らは畏敬の念をもって受け入れたのである。
三番目に、何世代にもわたり、地理的なつながりをつくったこと
カルナック神殿が、トトメス3世やアメンホテプ3世、ラムセス2世など何世代かの王によって、徐々に巨大化しただけではなく、
後の王たちが別のエリアに神殿をつくる時には、新しい聖地をカルナック神殿とつなげた。
例えば、数キロメートル離れたルクソール神殿を建造するとそことカルナックをつなげるまっすぐな道をつくり、その道の両脇には何百というスフィンクスを並べた。
驚くべきスケールだ。
また、女性の王であるハトシェプストが、ナイル川の対岸に神殿を作った時には、川を挟んでカルナック神殿と響き合うような位置が選ばれた。
ひとつの神殿は独立しているのでない。他の神殿や聖なる場所と繋がりあい、立地の中で、風景の中で意味をなすのである。
四番目に、王と王妃の親密さを表す表現がたくさんみられた事
神殿は、神々の偉大さだけではなく、王の神々への信仰の深さや彼らの偉大さを表現する場だ。
それらのイメージは圧倒的で、かつパターン化されていて、
訪れる現代人には、時にお腹いっぱいになってしまうこともある。
でも、わたしが面白いと思ったのは、王と王妃の親密さを表す表現をいくつか目にした事だ。そこには神格化したファラオたちの人間的な面がみられる。
そのしぐさも表情もなんと優しい事か。
衣服の線も透けて見える体の線も実に優美だ。
思えば、日本の歴史では女性たち(生む性を表した土偶やアマテラス大御神は別にして)はあまり登場しない。
王と王妃がそろった表現は、少なくともわたしはみたことがない。それはある種の民族性なのだろうか?
最後のおまけに、この巨大な古代遺跡に憧れて、様々な時代に西洋人たちが訪れたのだが、彼らは自分の名前をそこに彫り込んでいった事。19世紀のイギリス人の名前もみられる。なんとメディチの名前もあって驚いた。メディチのグラフィーティー!18-19 世紀の西洋人が古代エジプトに憧憬したのも深くうなづける。
普段、わたしは仕事でロンドンの大英博物館のエジプト展示室で歴史講座を開いたり、ご案内したりしている。
しかし、ロゼッタ・ストーンやラムセス2世の像など、大英博物館の中にある展示物どんなに素晴らしくても、バラバラになったアイテムにすぎない。
それらのひとつひとつを、オリジナルの風景の中で、あるべきセッティングのそのスケールの中で、ものとものとの関係が結びつくコンテキストの中で、実感したい。
それが今回のエジプト旅行の大きな目的だった。
ミッション達成である!
今度、大英博物館で仕事をする時には、なるべくそのスケールを感じてもらえるよう、コンテキストの中で展示物をみていただけるよう、心がけたい。
エジプトからいっぱいいただいたので、日本のみなさんに還元できれば幸いです。