展示にドップリ取り込まれる:マリーナ・アブラモヴィッチ展
美術館に入ると、「所持品を全部ロッカーに入れて下さい」といわれた。時計も外して。ここは銭湯か?
が、言われるがまま、ロッカーにしまった(もちろん服は脱がない)。
展示室への扉を開けると、たくさんの人々がテンでバラバラに動いていたり、フリーズしたりしていた。
壁を向いて座る人々、その目と鼻の先には原色で塗られた紙があり、みんなそれをじっと見つめている。
部屋の中央には大きく低いステージ。その上で人々が横たわっている。歩いている人もいる。ひとりだったり、連れ立っていたり。
え?どれが作品?それよか、ここはどこ?
ボケーとしてたら、若い女性が近づいてきて、いきなり手を繋がれた。
なされるがまま、わたしは、見知らぬ彼女と一緒に歩きだした。
そうか、これが作品なんだ。てことは、わたしも展示の一部になっちゃったてわけ!
パートナーはすべての展示室に誘導してくれた。すこしずつ全体がみえてくる。
手鏡をもって歩いている人もいる。手を繋いで歩いている人たちがいる。何人かは、わたしみたいに展示を見にきた訪問客なんだろう。
でも、だれが観客でだれがパーフォーマーなのかわからん。観客たちは、何をみながら、何を思いながら、歩いているんだろう。あっちも、わたしを見ながらそう思ってるのかしらん?
なーるほど、わたしは見る人だけど、同時に見られてるってことか。
ちょっとかっこよくいえば、主体であり客体ってことか。あの手鏡もそういう意味があるんだろう。
それが、ひょっとして、この展示をつくったアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチの言いたい事なのかしら。
「見る者」を展示に参加させる作品というのは、世にいっぱいあるけど、この作品みたいに、「いきなり」で、しかも「どっぷり」なのはない。
美術館を一回りすると、パートナーはわたしを大きな窓の前に立たせた。
窓には全面カーテンが下がっていて、外なんかまるで見えない。
そして、優しく私の背中をなぜながら、こういうのである
「眼を閉じて、何もないって事を考えてみて」
「そして、好きなだけここにいてください。あなたは自由です」
わたしは、また一人になった。
美術館のなかで、カーテンのさがった窓をじーっと見ながら、立っているのは始めてのことだった。
・・・さっきまで繋がっていた手のぬくもりを感じる。
背中に聞こえるほかの人の足音に耳をすます。
このギャラリーに到着した時の自分のことを思い出す。
ギャラリーの向こうの世界のことを考える。
ああ、「何もないこと」って、何? 世界は「何か」であふれてる。
もうどれくらいここに立っているのだろう。
アブラモヴィッチは、セルビア出身の女性アーティストで、70年代から自分の肉体を使うパーフォマンスで有名だ。
自分の体に傷をつけたり、ろうそくの上に横たわったり、過激な切り口でセンセーショナルな表現をつくる。
観客を動員させる作品もよくつくっていて、1対1でただただ座り続けたり、口紅やナイフなどの道具を与えて、彼女を好きにさせたり・・・。
二度ほど、パーフォマンスの最中に死にかけた事もあるらしい。
レディガガが大変敬愛するアーティストらしい。
個人的には暴力的なのはいただけない。
今回のサーペンタイン・ギャラリー(ロンドン)の展示「512 時間」は、他の作品と違って、アーティスト自身が現前しない。
というか、展示全体がアーティストなんだろう。
そして、タイトルに時間を使っているってことは、きっと、「時間」、「空虚な」と同時に、「詰まった」時間も、もうひとつのテーマなのにちがいない。
静かで、内省的で、
観客が自然にしかもどっぷり作品にとりこまれる展示で、
まさに、アートを巡る主客の関係を、問いかける作品だった。
そのアプローチのなんと、まっすぐなことか。
このブログは、アートローグの看板ウサギのロビンによって書かれています。
アートローグは、ロンドンを拠点にユニークな文化の旅や日英のミュージアムコーディネートの仕事をしています。
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