1000枚のモネを売った男

日本の人は印象派好きだと思う。

彼らの陽気で、光にみちた明快な絵は、確かにわたしたちの眼を楽しませてくれる。

だけれど、そのスタイルが誕生した頃、社会からはたいへんな罵声を浴びせられた事、

「印象」という名だって、実は、こいつらの絵は、「たかが印象でしかない」という、

当時の批評家の皮肉から生まれた事を知ると、なぜ、こんな素敵な絵が?と首をかしげる方が多い。

 

絵に限らず、社会の評価は常に変化するものだ。

その意味でも、伝統的な美術のあり方を塗り変えた、若手アーティストの挑戦は賞賛するに余りある。

 

だが、歴史をかえたのは、ステージに立つ画家だけの功業ではない。

その舞台裏にも、アーティストたちを支え、市場を動かし、新しい鑑賞をお膳立てする、果敢な男がいた。

その名はPaul Durand-Ruel 。パリの画商である。

 

印象派の展覧会というと、そのアーティストや作品自体に焦点をあてるのが王道だが、

ロンドンのナショナルギャラリーでの展覧会「印象派を創造する」は、その裏舞台に焦点をあてた興味深い内容だった。

durand ruel

まず、画商デュラン-ルエルのドメスティックな側面から、展覧会ははじまる。

ルノワールが描いたデュラン-ルエルの子供たちの絵、モネが描いた彼の家のドア・・・

そこには、彼の居間の写真があり、その空間を彷彿とさせ、

画家と理解者の暖かい人間関係を感じさせる展示になっている。

 

次に、仕事に対する思い。

まだ20代、父から仕事を受け継いだ時、実はあまりやる気が無かったのだが、

ミレーや、ドラクロワ、ルソーの絵をみてから、この仕事に生きがいを感じるようになったという。

彼の情熱に火をつけたのは、マネの絵だった。

1860年代当時、マネの作品は社会から非難を浴びていた。

だが、やがて印象派とよばれることになる若手画家たちにとっては、目指すべき憧れだった。印象派が生まれる前夜である。

そのマネの絵を何枚も、デュラン-ルエルは買い集めた。常識外れの博打だ。

 

やがて、マネやピサロに出会う。

それも普仏戦争を避けて亡命していたロンドンで。

彼はすぐに射程を広げ、その若い画家たちの制作活動を、経済的に精神的にサポートした。

だが売れなかった。破綻しかけたことも1度や2度ではない。

 

その状況をかえたのはアメリカだ。

アメリカは当時急速に経済力を伸ばしていた。

価値感も、ヨーロッパの古い伝統とは一線を画す、新しいものを求めていた。

その市場に印象派のアーティストたちの作風はぴったりあったのである。

 

今回の展覧会は、1905年、デュラン-ルエルが企画したロンドンでの展覧会の再現で終わる。

考えてみれば、当時のナショナルギャラリーは、アカデミーオブアーツの本拠地であり、

そのアカデミーは、海を渡ってやってきた印象派をコケおろした組織だった。

 

翻って、今日、当のギャラリーに集まってくる観客たちのほとんどは印象派ファンだ。

社会は変わる。

わたしたち個人の価値感も変わる。

なんだか、自分や社会を鏡でみるような展覧会だった。

ある意味、ナショナルギャラリーそのものが、自分の過去を鏡に映す機会だともいえる。

 

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追記:この展覧会では、個人蔵の作品がたくさんあり、決して普段はみられない絵が並んでいる。

それもこの展覧会のプラス面である。

 

 


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