日本のアーティストは英国でどう見られるのか?:大竹伸朗展
「あなたのアートは、ヨーロッパ風だといわれることが多いけど、それに対してどう思いますか?」
質問者はいきなりそう切り出した。
ここはロンドンのJapan Foundation センター、対談相手は日本を代表する現代美術のアーティスト大竹伸朗だ。
大竹は、いわゆるアカデミズムをまっすぐ通らず、独学で制作の道を歩んできた。
旅に出て、そこで出会ったものを吸収し、彼自身の感性にまかせて再生していく-それが彼の基本的アプローチだ。
作品の形態としては、さまざまな素材をはりつけた平面作品から収集物で囲まれた小屋・・・と、幅広い。
ヨーロッパ風だといわれるのは、スケールは違えど、それが一貫して、ノスタルジックな匂いのするコラージュ作品だからだろうか。
先の質問に大竹は、
「ぼくには、ヨーロッパとか、日本とかって、意識はほとんどないんですよ」と、少しめんどくさそうに答えた。
海外で発表することの多いアーティストだから、きっと同じような質問には慣れているのだろう。
『また、その疑問か。』 そんな内声がきこえてきそうだ。
大竹と同じように日本を代表するもうひとりの作家、村上隆には、そんな質問はおそらくこないに違いない。
村上は美大で日本画の技法を身に着け、その表現媒体も漫画/アニメなどの日本のサブカルチャーで、実に日本臭い。
でも、正直なところ、わたし個人は村上のアプローチは好かない。
世界にうって出ようとするアーティストが、日本文化を背負うことを求められるのも自然なのかもしれない。
だけど外の目線に対し迎合的に応えているように思えてならないからだ。
それを超越して、どこにもないような表現を村上がしているのなら、話は別だ。
でも残念ながら、それほどでもない。
技術はうまいかもしれないが、アートとして日本という文化背景を突き抜け、万人の心に響く新しい表現ではない、と思う。
わたしには、大竹のような応じ方が、ひとりのアーティストとして、もっと正直に聞こえる。
いったい、表現者である前に、「日本人」とか「○○人」である必要があるのだろうか?
しかし、ひとたび日本という国を出たとき、アートの世界的な市場からすれば
アーティストの文化的な背景をいやがおうにも、取りざたされる-それが今の現実だ。
だが問題は、そこに、英国を含め、西洋の文化史上主義的なまなざしが見え隠れすることにあるのかもしれない。
だって、それがもし西洋出身のアーティストなら、
「あなたのどこがイギリス的ですか?」なんて聞かれることなんかないもの。
この状況は、西洋の国にいるからこそ、みえてくる日本のアート、非西洋のアートをとりまく世界市場の現実なのだろうか。
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