美術館のバンクシー@アムステルダム
2016年末、アムステルダムの美術館でバンクシーをやっていると聞いて、
ロンドンから弾丸旅行をした。
バンクシーのファンであるだけではなく、
ストリートアーティストの作品を美術館という場でどうみせるのか、
どんな社会的インパクトがあるのか、自分の目で確かめたかったからだ。
最初は懐疑的だった。
ストリートに生きるはずのアート作品が、
「美術館」という限られた空間ではうまく生かせないんじゃないの?とか、
警察や国家などの権威に対して、反骨精神をもって向かうのがバンクシーらストリートアーティストの姿勢のはずで、
彼らにとって「美術館」もある意味権威に違いないのに・・・、
結局、そっちにとりこまれちゃったわけ?
・・・・なんて、かなり疑い深い気持ちが正直あった。
ところがところが、さすがのバンクシー。
展覧会をみてきて、この人はやっぱりホンモノだと思ったね。
アムステルダムでは、ふたつのミュージアムでやっていた。
Beurs van Berlage という中央駅前にある立派な文化施設と Moco Galleryというゴッホ美術館の隣にある現代アートの美術館。
特にMoco Gallery が面白かった。
ここは、20世紀はじめに建てられたモダンな邸宅が美術館になったところ。
美しいステンドグラスとか暖炉とかキャビネットがとかがある、とても洒落た建物。
ストリートアーティストたちが普段活躍する、廃墟ビルとか汚らしい横道とか、高架下とかとは正反対の空間だ。
そこに、バンクシーの作品がしっくり馴染んでいるなんて、とてもいえないけれど、
逆に、そのコントラストが、興味深く、圧倒的だ。
だから、美術館に取り込まれたのではなくて、
きっとバンクシーはそのギャップを狙ったんだ、と思った。
部屋ごとに「兵器」「監視社会」「商業主義」「それでも希望がある」といったテーマがある。
作品の一点一点も、額にはまっていたり、彫刻台にのっていたり、一点一点に解説がはいっていたり、
典型的な「美術館」の見せ方だ。
作品の横にちんまり解説ラベルが貼られていることなどに、はじめは笑えてしまった。
だって、ストリートアートは、美術を読み解くリテラシーのある一握りの人々だけではなく、
町に生きる一般の人々に向けた直接的なメッセージすることが命であり、
現代美術館によくあるような難解な作品ではない。
ほんとうはバンクシーの表現に「解説」なんて無用なんだから。
でも、作品の一点一点をみるうちに、
実は、この「美術館」という空間で展覧会自体をやることが、
彼の裏返しのコンセプトなのではないかと思えてきた。
そこには、わたしを含め、見に来た観客もが巻き込まれている。
アートって誰のためのものなのよ?
美術館って何よ?
つまるところ、アートって何なの?
「美術館に展示されたものがアートである」
というわたしたちの概念に、
逆説的にパワフルに問いかけてくる。
一点一点の作品だけではなく、
この展覧会全体をふくめて、わたしたちが生きる社会について、
裏返しの視点から考え直させてくれる。
たぶん、絶対的な答えなんてないんだろう。
だって、アートの定義はその時代に生きる人々が作っていくんだから。
むしろ、つくられた定義に迎合したりせず、その限界に果敢にチャレンジし、
命がけで根本的な問いかけをしてくる、それがホンモノのアートだと、わたしは思う。
レンブラントも、ゴッホも、アンディ=ウォーホールもそうだったように。
それがアートの力だと、今回の展覧会をみて再確認した。
ストリートアートのすばらしさのひとつは、そのユーモアにある。
笑いには、愛が裏打ちされている。
どんなに困難な社会に生きようと、人間がもちえる、すばらしいバランス感覚だろう。
この展覧会は、「Laugh Now 」というタイトルだ。
展示された作品の中に、猿が首から看板を下げているものがあった。
そこには、こう書かれている
「Laugh now, but one day we’ll be in charge」
なんとブラックな風刺のきいたメッセージではないか。
それでも、わたしたちは、少なくとも、バンクシーの展覧会に巡り会えた。
一点一点の作品を、同時にこれを見に来たわたしたち自身をも、
笑い飛ばせることが今日の幸せだと思う。
明日からエジプトにいく。
2011年、アラブの春の時、かの地では、たくさんのアートがストリートに花開いた。
でも、権力側は、反体制的な「ゴミ」として、みごとに一掃したのだそうだ。
もし、残っているならば、是非、アートの力に出会ってみたい。
バンクシーの展覧会は、2017年1月31日までに延長されました。
Moco Museum Amsterdam