神の家からミュージアムへ:イスタンブール、アヤ・ソフィア
この空気の厚みはいったいどこからくるのだろう。巨大ドームの下に立った時、今まで経験したことのないような重厚な印象をうけて唖然とした。様々な時代の様々な祈りの言葉が、千年の時を超えてこだまする。ここは、トルコの古都イスタンブールにある「アヤ・ソフィア」だ。
ドーム頂上からは、アラブ文字の美しいカリグラフィーが、その下にいるすべてのものの上に降り注いでいる。ドームを支える四隅では大きな翼の天使たちが舞っている。建物の中空には、黒地に金色の優雅なアラブ文字が描かれた巨大な円がいくつも下がっている。
その向こうには、金色の像が浮かんでいる。幼児キリストと彼を膝に抱えたマリアの聖母子像だ。
そのマリアの足元に目を落とすと、アラベスクで飾られた祈りの場 -メッカの方角を示すミフラーブが、そして、その右横には、イスラムの説教師が座る高座、ミンバーがある。
ここは、ある時はキリスト教の教会、ある時はイスラム教のモスクだった聖地。さまざまな時代のさまざまな祈りの声は、この建物がもつ実にユニークな歴史の渦巻きから響いてくるに違いない。
そのはじまりは、この地がローマ帝国の新しい都になった時、禁じられていたキリスト教がはじめて公認されたコンスタンティヌス帝(紀元後4世紀)の時代まで遡る。つまり、サン・ピエトロ大聖堂と並ぶ、キリスト教ごく初期の最も重要な聖地なのだ。かつて、ここにはキリストが架けられたホンモノの十字架が収められていたという。
やがてローマ帝国が滅び、15世紀になるとオスマントルコの土地となり、この荘厳な建物はモスクに換えられた。ある意味それはイスラムのキリスト教に対する勝利のしるしだった。
ドームの頂上にあった十字架は三日月に、ビザンチン美術で飾られた聖壇は、ミフラーブに換えられた。床には絨毯が敷き詰められ、ドームの周りにはミナレットが建てられた。そして、みごとなイスラムの礼拝堂として生まれ変わったのである。かつての由緒あるキリスト教会は、モスクとしても、非常に重要な位置を占めることになった。
再び、数百年の時が過ぎ、現在はどうかというと、非常に興味深いことに、もはやどちらの神の家でもない。オスマン帝国が滅亡し、1934年に、この国はトルコ共和国になった。初代大統領ムスタファ・ケマルの主導の下、近代化が進み、この神の家アヤ・ソフィアも世俗化し、「ミュージアム」になったのである。
近代的技術で修復がすすみ、漆喰の中に隠れていたビザンチン美術が再び息を吹き返した。聖職者に換わって学芸員が配属されるようになった。ここを訪れる人々は、敬虔な信者ではなく、素晴らしい建築物や美術作品を愛で、過去の文化を学ぼうとする人々である。
職業柄、これまでたくさんのミュージアムを見てきたけれど、こんなミュージアムははじめてだった。 ミュージアムといえば(宗教関係の資料を所蔵するミュージアムであれば)、かつて教会やモスクに飾られたり使われていたいたものが、オリジナルの文脈から切り離されて、その文化・教育施設の中にはいってくるのが、お定まりのケースである。しかし、ここは、宗教の場、それも世界二大宗教の場がそのままそっくりミュージアムになったのである。収蔵庫であり、展示室であり、修復現場であり、研究と教育の場であり、そしてなによりも人類が残した偉大な文化遺産だ。
神に対する冒涜だとか、作られた時の目的のままに使われるべきだとか、あるいは人間はかつてのような宗教心をなくしてしまったなどと嘆いているのでは、毛頭ない。
モザイクのキリストの顔も、数学的リズムが調和する文様やカリグラフィーも、それぞれに美しい。そうして、最初のポジションに立ち戻って、再び高いドームを仰ぎ見ながら、この建物が、1700年近い歴史のなかで、人々になんとさまざまな経験を与えてきたことだろうと、思いやってみるのである。
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