2012年ターナー賞展とアートへの財政支援

テートブリテンにターナー賞展を観に行った。
今年は、従来の地上階の天井の高い展示室ではなくて、地下の方に移っていて、あれ?と思った。
宣伝も、例年に比べてうんと控えめだ。規模が小さくなったようにもみえる。

そんな疑惑とは裏腹に、そこに展示された4人の新進アーティストたちの作品はなかなか面白かった。
わたしが個人的に気に入ったのは、Paul Nobeの想像上の都市近郊を描いた巨大なドローイング作品。
鉛筆だけで非常に細かな描きこみがなされている。
エッシャーのようなシュールさもあれば、ユーモアも見え隠れする。
どこか未来の都市のようでもあり、ノスタルジックでもある。
ユートピアのようでもあれば、人間が絶滅した後の廃墟のようでもある。
ペシミスティックなのに、どこか暖かさを感じるのは、作品の中心となっているモチーフがPOO(うんこ)だからではないかしら。
人間はひとりもいないのに、その「生産物」たちがそこここに生を営んでいる。どっか、皮肉も感じる。
でも、POOたちは不快な感じなどぜんぜんしない。どれもこれも人格をもっているようで、互いに寄り添っていたりする (⌒?⌒)
ドローイングのほかに大理石の作品も点在するが、それらもPOOたちだ。
立派な台座に鎮座し、ユニークな形態を表している。
自分の世界をこつこつと作り上げるのは、アーティストの実に古典的なアプローチだけれど、Paul Nobleの作品世界には、現代の関心事が微妙に織り込まれ、かつ、彼独自のヴィジョンが創造的に展開されている。

ターナー賞が贈られたElizabeth Priceのフィルム作品「Woolworths Choire of 1979」は、
確かに良く出来ていて面白いところもあるけれど、観た直後はなんだか消化不良に陥ってしまった。
教会の建築に関するレクチャーのようなものから始まって、それが、すこしずつ、60年代のサイケなロック・ガールたちの音楽やダンスに重なり、最後には、1979年におこったデパート火災のできごとに変わっていく。
映像を見ながら、最後にはこの三つが繋がるのだろうと期待していたが、なんの脈略もなくおわってしまったからだ。
だけれど、美術館を後にしてから、そうか「脈略なくおわらせてしまうこと」が彼女のコンセプトなのではないかと振り返った。
まったく違うモチーフに対して意味をつなげようとするのは、観るものの認識の仕方であり、映画の見方だ。
彼女は、それに挑戦しようとしたのかもしれない。

このエントリの冒頭で、ターナー展は規模が小さくなったのではと書いたけれど、それは来館者の人気にも反映していた。
というのは、同時開催されている「前ラファエロ派展」は大変な混み様で、わたしは途中で断念するほどだったのに、「ターナー賞展」の方は、はっきりいってガラガラだったからだ。きっと、テート側が宣伝を抑えているからに違いない。
テートの大々的な恒例行事である「ターナー賞展」にまで、昨今の財政削減が及んでいるってことか。
アートへの公的助成がいかに冷え込もうと、アーティストは淡々と独自の表現をつくっていくのだろう。


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