鏡と椅子:ふたつのフロイド・ミュージアム

精神分析学の権威フロイドの名前を冠したミュージアムが、世界にふたつあります。
ひとつは、ロンドンの北部住宅街にある一軒家、もうひとつはウィーンのベルガッセ通りに面したアパルトメント。
どちらも彼とその家族が住んだ家です。

ウィーンは、1891年から45年以上の長きにわたって拠点とした場所。
精神分析医としての名声を高めていったのも、家族を育てたのも、この家でした。
しかし、やがてナチスが台頭すると、周知のように、家族ともどもイギリスに亡命したのです。
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ロンドン、フロイドミュージアム            ウィーン、フロイドミュージアム

ロンドンのミュージアムは我が家にも近く、興味深い企画展をよくうつので、何度か足を運びました。
なかでも彼の書斎はとても面白い。
大きな仕事机も、書棚も、暖炉の回りも、好奇心をそそられるオブジェに溢れ、こういうものを眺めながら、人間の深層世界を探究したのだろうかと思い描いてみます。
患者たちがリラックスして診断を受けた大きな安楽椅子もあります。色鮮やかなイランカーペットがかけられたその椅子は、実にすわり心地がよいのだそうで、ウィーンからわざわざ運んできたのだとか。
少し離れて、特別注文で作ったフロイド専用の不思議な形をした椅子が置いてある。
彼が仕事をしていた空間がそのままの状態で残されているのです。

ここを先に見ていたからでしょうか、
今回のウィーンの旅で、フロイドの家を訪問した時、「亡命」の爪あとを見たように思います。
なぜなら、当たり前のことですが、ウィーンの方はまさにも抜けの殻で、
彼が仕事をした、生活をした、その匂いがほとんど感じられない。
当時の面影を残すのは、特徴ある壁紙が張りめぐらされた玄関ホールだけでした。
評判の医者として多くの患者を受け入れた仕事場には、壁面のガラスケースに、当時の室内を捉えた写真や手紙や身の回り品が展示されている。
家族の住空間であったところは、ショップやミュージアムのオフィスになっています。

ふたつのミュージアムを表面的に比較するならば、ロンドンの方がだんぜん血の通うミュージアムでしょう。
見学客にとっても、彼のパーソナルな側面をより深く理解できるし、なにより見甲斐があります。

だけれど、亡命したのはフロイドが83歳の時であり、その翌年には末期がんで亡くなっていること―つまり、ロンドンには1年しか生活しなかったこと、
そして、弟子たちが亡命を勧めていたにもかかわらず、本人は最後の最後まで反対していたことを考えれば、
フロイドにとって、本当に血が通った場所がウィーンだったのは、疑いようもありません。
そんなことを考えながら、もぬけの殻のウィーンの家を見ていていると、そのあまりの空虚さが痛々しい。
生活を根こそぎ奪われてしまうことの重さを、あるいは、ひとと空間の繋がりの深さに思いが至るのです。

ところで、そのエンプティなミュージアムに、気がかりなものをふたつ見つけました。
ひとつは、ロンドンの書斎にもおいてある、あの「フロイトの椅子」が、なんでもないコーナーにぽつんと置かれてあったこと。
なぜ、この椅子はここにあるのだろう。フロイドはわざわざ同じものをロンドンでも注文したのだろうか。それなら、なぜ、この椅子だけがここに残されたのか。
いや、博物館側が作ったコピーかもしれない―フロイトの分身として、この椅子が選ばれたとしても不思議ではない・・・。(ノートが置いてあるのに、ドイツ語が読めない)V Freud 3

もうひとつは、外を望む書斎の窓の、そのど真ん中にかけてあった小さな飾り鏡。
この鏡は、フロイドがここに住んでいた頃から、この不可解な位置にあったのだそうです。
その鏡だけが、ひょっとしたら、フロイドがもっとも盛んだった頃の、仕事や家族の様子を知る唯一の目撃者なのではないかと、想像を膨らませます。
今、ここに映っているのは、ガラスケースの展示資料や観光客だけだとしても。

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