2013 ベネチアビエンナーレ2:田中功起とジェレミー・ディラー

ベネチアビエンナーレは、先回書いた「Arsenale」会場のほかに、国単位のパビリオンで構成された巨大なエリアがある。各国のキューレターが、近年活躍した自国のアーティストの作品を、決められたパビリオンのなかで紹介するわけだ。

たとえば、日本は田中功起、イギリスならジェレミー・デラーという具合。彼らが扱うテーマもナショナルなものだ。大半は、その国からみえてくる考えや疑問を投げかける作品だった。

田中功起がテーマにしたのは東日本大震災。あの大惨事の直後、おおぜいの被災者がいきなり共同生活を強いられることになったーその非日常的体験によって、ひとりひとりの思いや他者との交わり方がどのように影響をうけたのか、何かを共につくりあげるというのはどういうことなのかを問いかけるのである。

パビリオンのあちこちに大型スクリーンが設置されている。あるものは、五人のヘアースタイリストがひとりのモデルの髪を切っていくシーン、あるものは五人の中国人陶芸家たちがいっしょにひとつの作品をつくりあげていくシーン、あるものは、五人の詩人がひとつの詩を制作していくシーン。そのように、ありえない状況を強制的に作り出すことによって、コミュニケーションや社会というものに違う角度から光をあてることになるだろう。

tanaka koki

なるほど、あの大惨事からそういう点に目をむけることもできるってわけね、というのが、まずわたしの感想。確かに、被災によってひきおこされた負の記憶だけに目をむけるのではなく、それを乗り越えていこうとする日本人の社会性を捉えようとした建設的で客観的な視点ではある。しかし、会場を後にしたとき、残ったのはなんだかうすっぺらい印象であった。それ以上に深まることはなかったのだ。なぜだろう?ひょっとしたら、そのプラスの視点の裏側に現実的にあったはずの、絶滅的なあの経験がすっとんでいたからかもしれない。

面白かったのはイギリスのジェレミー・ディラーの方だった。ディラーもイギリスという国がテーマだ。しかも、どっぷり。石器時代の昔から、ヘンリー王子が希少動物を撃ったスキャンダルまでカバーしている。あちこちに皮肉と批判が隠れている。たとえば、70年代のデビッド・ボーイの全国ツアーの狂乱ぶりとIRA運動の大混乱を捉えた写真を交互に並置するなど、イギリスという社会の表裏を時間軸を交差させながら、視覚的に問うている。パビリオンのなかに設置されたティーコーナー(これも、作品の一部?)でイングリッシュティーを飲みながら、どこかユーモアを感じていた。

ここにあげたのは、たまたま日本とイギリスだけど、ベネチアビエンナーレでは、その全体的構造のために、無意識的にも、国どうしを比べてしまう。まるで現代アートのオリンピックだ。それが、このビエンナーレの特徴だといってもよい。そして、そのことを、現代のグローバリズムという現象から見直したとき、新たな問いが浮き彫りになるわけだが、そのことについて書くのは次の機会にしよう。 紅茶がさめそうだ。

jeremy diller


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